キャリアについてよくあるご質問

キャリアについてよくあるご質問

ウィリス・キャリアってどんな人?みんなからよく聞かれる質問と、その答えをわかりやすくまとめました。

なぜウィリス・キャリアは空調を発明したのですか?

ウィリス・キャリアは、ニューヨーク・ブルックリンのサケット&ウィルヘルム印刷工場の生産上の問題を解決するため、1902年に最初の近代的空調システムを設計しました。

多色印刷で使用される紙は、湿度変化によって色のズレや波打ちが発生し、給紙機構の詰まりやインク乾燥の遅れを引き起こしていました。キャリアの解決策は湿度制御に重点を置いたもので、この取り組みが産業の創出につながり、私たちの生活・働き方・余暇の過ごし方を根本から向上させました。

ウィリス・キャリアはどのような発明で知られていますか?

ウィリス・キャリアは生涯で80件以上の特許を取得しましたが、とりわけいくつかの画期的な製品やアイデアで知られています。

第一に、1902年にニューヨーク・ブルックリンのサケット&ウィルヘルム社に近代的空調を導入したことが挙げられます。第二に、1911年に『合理的湿り空気線図公式(Rational Psychrometric Formulae)』を発表し、温度と湿度の関係を科学的に扱う基盤をエンジニアに提供しました。この文書は「湿り空気学のマグナカルタ」とも呼ばれ、キャリアが「空調の父」と称される礎となりました。

1922年にはターボ冷凍機を開発し、約50年ぶりとなる冷凍技術の大きな進歩をもたらしました。これにより、映画館などの施設にも安全に空調を提供でき、市場が大きく拡大しました。最初のターボ冷凍機は1960年にスミソニアン博物館に展示され、現在も時折公開されています。

また、1940年に複数室の建物向け『Conduit Weathermaster』システムを導入したことも重要な成果です。さらにキャリア自身は、1943年に航空諮問委員会(NACA)の風洞設備で高高度の極低温環境を再現する設計に携わった仕事を、最初は不可能に思えた「ブルックリン橋のような大仕事」だったと述べています。この設計は大きな成功を収め、空軍関係者からは第二次世界大戦の終結を数ヶ月早めた可能性があるとも評価されました。

ウィリス・キャリアの仕事はどのように世界を変えましたか?

1998年、ウィリス・H・キャリア博士はTIME誌により20世紀の「ビルダー&タイタン(時代を築いた人物)」の一人に選出されました。翌年にはU.S. News & World Report誌が、現代を形作った25人のアメリカ人の一人であり「20世紀で最もクールなアメリカ人」と評し、「『空調の父』キャリアは、サンベルト地帯(米国南西部)だけでなく、工場、映画館、そして現代の住宅においても、夏を快適に過ごせるようにした人物である」と紹介しました。

2000年時点で米国の住宅1億7百万戸のうち、5,730万戸がセントラル空調を、2,350万戸がルームエアコンを設置していました。特に米国南部では大半の住宅で空調が普及していました。同年、米国工学アカデミーは20世紀の偉大な工学的成果20項目を選出し、空調を電話に次ぐ9位に位置づけ、高速道路網よりも上位に評価しました。

1950年にキャリアが亡くなった際、後任の会長兼CEOクラウド・ワンプラーは「科学的業績が偉大であったことに加え、教え、人々を鼓舞する能力こそが、彼の名を冠する企業に最良の遺産を残した」と記しています。今日、ウィリス・キャリアは世界を変えた産業を創始した人物として「空調の父」として広く知られています。

最初のキヤリア製空調機はどこに設置されましたか?

最初のキヤリア製空調機は、1902年の夏にニューヨーク・ブルックリンのサケット&ウィルヘルム印刷工場に設置されました。

キヤリア社としての初の海外販売は1907年で、日本の横浜にある富士紡績の製糸工場向けでした。

また、代表的な製品であるターボ冷凍機が初めて設置されたのは1923年で、フィラデルフィアのスティーブン・F・ホイットマン社の製菓工場でした。

ウィリス・キャリアは結婚していましたか?

ウィリス・キャリアはコーネル大学在学中にエディス・クレア・シーモアと出会い、1902年8月29日にニューヨーク州アンゴラで結婚しました。しかしクレアは1912年、33歳で糖尿病により亡くなりました。

その後、1913年4月16日にワシントンD.C.でジェニー・ティフト・マーティンと再婚しました。ジェニーはコーネル大学卒(1891年卒)で、バッファローの公立学校で生物教師を務めました。彼女は1915年にCarrier Engineering Corporationの初期出資者の一人となり、1939年に亡くなるまでキャリアに安定した家庭環境を提供しました。

1941年にはフロリダ州でエリザベス・マーシュ“ベッシー”・ワイズと結婚しました。彼女は優れた帽子デザイナーで、陽気で活発な人物として知られ、1964年に亡くなりました。

なお、キャリアは3人の妻との間に子どもはいませんでしたが、「自分は“heir-conditioned(後継者〈heir〉+空調〈air-conditioned〉の語呂合わせ)ではない」と冗談を言っていました。彼はバーノンとアールという2人の息子を養子として迎えています。

ウィリス・キャリアはどこに住んでいましたか?

ウィリス・キャリアはニューヨーク州アンゴラで生まれ、コーネル大学進学のためイサカに移るまで家族の農場で生活していました。

大学卒業後はニューヨーク州バッファローに定住し、バッファロー・フォージ社で勤務しました。

また、自身の名を冠した会社の本社がニュージャージー州に置かれていた時期には、同州エセックス郡にも居住していました。さらに1937年には、キヤリア社の本社移転に伴いニューヨーク州シラキュースへ移転しています。

ウィリス・キャリアの出自(ルーツ)はどのようなものですか?

系譜学の研究者の一般的な見解によれば、ウィリス・キャリアの移民の祖先であるトーマス・キャリアは1626年にウェールズで生まれました。

マーガレット・インゲルスの著書『空調の父(Father of Air Conditioning)』によると、トーマスは1663年頃にマサチューセッツに到着しました。その子孫であるウィリスの曾祖父母は、1799年にモホーク渓谷を西へと進む開拓団に加わりました。

また、母方の家系を通じて、発明家エリシャ・グレイブス・オーチスとも親戚関係にありました。キヤリア社とオーチス・エレベーター社の創業者は遠縁(高祖父母が兄弟姉妹)にあたります。

ウィリス・キャリアの資産(純資産)はどのくらいでしたか?

残念ながら、現時点ではウィリス・キャリアの純資産額は明らかになっていません。銀行帳簿や個人の財務記録なども発見されていないため、正確な資産規模は不明です。

ただし、彼が生涯を通じて非常に寛大であったことは知られており、困難に直面している社員を支援したという逸話が多く残されています。

歴史的な観点から見ると、彼の資産が最も大きかったのは1929年の世界恐慌(株価大暴落)の直前であったと考えられています。

Carrier Global Corporationは誰によって設立されましたか?

Carrier Engineering Corporationは1915年に独立企業として設立されました。第一次世界大戦による経済的混乱にもかかわらず、ウィリス・キャリアと6人のパートナーは、近代的空調が世界を変える可能性を信じていました。

1930年には、空調事業を暖房・換気・冷凍分野の企業と統合し、現代のHVAC(暖房・換気・空調)および冷凍産業の基盤を築きました。これらの革新は大恐慌、第二次世界大戦、ベビーブーム期を通じて業界の発展を支える顧客ソリューションを生み出しました。

それから40年以上後、同社はUnited Technologies Corporation(UTC)に買収され、世界的な事業展開を拡大し、グローバル企業としての地位を確立しました。

2020年4月3日、UTCからの分離を完了し、独立した上場企業であるCarrier Global Corporationとして新たにスタートしました。株式はニューヨーク証券取引所に上場され、ティッカーシンボル「CARR」で取引されています。

ウィリス・キャリアの幼少期や経歴はどのようなものでしたか?

ウィリス・ハビランド・キャリアは1876年11月26日、ニューヨーク州アンゴラ(バッファロー近郊)の酪農農場で生まれました。デュアンとエリザベス(旧姓ハビランド)夫妻の一人息子でした。曾祖父母はニューイングランドから移住し、エリー郡に定住していました。

幼少期は一教室の小学校に通い、農場で働きながらも、友人と野球をしたり近くのエリー湖で泳いだりする時間もありました。

アンゴラ・アカデミーを卒業後、1893年恐慌の際には家計を支えるため教職に就きました。その後バッファローのセントラル高校で学び、奨学金を得てコーネル大学へ進学し、1901年に機械工学で卒業しました。

在学中の夏には立体視装置と観察カードの訪問販売を行い、1899年にはパートナーと学生向けランドリー事業を立ち上げるなど、早くから起業家精神を示していました。

卒業後の最初の職場はバッファロー・フォージ社で、週給10ドルで暖房設備・ボイラー・木材やコーヒーの乾燥システムの設計図作成に従事しました。

ウィリス・キャリアはいつ「湿り空気線図」の理論を発表しましたか?

ウィリス・キャリアは1911年12月8日、米国機械学会(ASME)の年次総会で『合理的湿り空気線図公式(Rational Psychrometric Formulae)』を発表しました。これは温度と湿度の関係を正確に扱う初の数学的手法を提供し、やがて権威ある標準として広く受け入れられました。

同時に『空気調和装置―適用および運転の原理(Air Conditioning Apparatus--Principles Governing Its Application and Operation)』も発表し、加湿・除湿装置や自動制御に関する包括的な議論を行いました。

この講演への招待は、空調が確立した産業であり新たな工学分野として認識されていたことを示します。湿り空気線図は教科書に掲載され、工学教育で教えられ、多言語に翻訳されました。35歳のキャリアは国際的に「空調の父」として認められるようになりました。

最初の近代的な空調装置はどのような構成でしたか?

最初の近代的空調設備は、サケット&ウィルヘルム印刷工場の2階に設置され、60台の多色印刷機が稼働する空間の湿度低減を目的として設計されました。

目標条件は冬季は華氏70度(摂氏約21度)・湿度55%、夏季は華氏80度(摂氏約27度)・湿度55%でした。設備は、バッファロー・フォージ社が既に設置していた温風暖房システムに空気冷却機能を追加する形で構成されました。

冬季の加湿には、直径1-1/4インチの穴あき蒸気管を各温風立ち上がり管の基部に配置し、Johnson Temperature Regulating社のヒューミディスタットで制御しました。

冷却・除湿のため、ファン吸気側に2系統のプレーンサーフェス型コイルを設置し、合計60トンの冷却負荷に対応するよう選定されました。

設備一式には、コイル、ファン、ダクト、ヒーター、穴あき蒸気管、温度制御装置が含まれました。冷却水は1902年夏に自噴井戸から供給され、1903年春にはDe La Vergne製アンモニア圧縮機で補完されました。

家庭用の空調はいつ普及しましたか?

1913年、機械式冷凍装置を備えた住宅用空調システムを、ミネアポリスで邸宅を建設していたチャールズ・G・ゲイツ氏に販売したのがキヤリア社の初の家庭用案件でした。しかし、残念なことにゲイツ氏は新居に入居する前に逝去しました。

その後、大型の産業用空調システムが小型化・低コスト化され、家庭用電化製品として普及するまでには約20年を要しました。住宅用空調が広く一般に普及するようになったのは、第二次世界大戦後のベビーブーム期到来後のことでした。

なぜ「エアコンディショニング(air-conditioning)」という名称が使われるようになったのですか?

1906年5月、産業技術者スチュアート・W・クレイマーは、ノースカロライナ州アッシュビルで開催された米国綿工業協会の会合で、「エアコンディショニング(air-conditioning)」という用語を初めて提唱しました。クレイマーは1895年頃から繊維工場内の空気を加湿し、糸を湿らせ布の柔軟性を保つ「ヤーンコンディショニング」を行っていました。

その後「エアコンディショニング」は単なる調湿を超え、換気、清浄化、除湿といった要素を含む概念へと発展しました。ほどなくしてキャリアとその技術者たちもこの用語を使い始め、世界的に定着しました。

キャリアは後に、「クレイマー氏と列車の中で会って、話をする機会が一度だけあった。非常に立派な南部紳士だった」と記しています。

空調は時間とともにどのように進化しましたか?

近代的な空調は20世紀初頭に工場で誕生しましたが、1920年代から1930年代には百貨店、映画館、船舶、鉄道、レストラン、スーパーマーケットなどに不可欠な存在となりました。

その後、産業用空調システムは小型化・簡素化・低コスト化が進み、やがて家庭用電化製品として住宅にも導入されるようになりました。

現在では、産業用・家庭用のいずれも、エネルギー効率の向上、多機能化、コストパフォーマンスの改善、知能化、持続可能性の向上が進んでいます。

エアコンはどのような働きをしますか?

エアコンは、室内の空気から熱と水分を取り除き、それらを屋外へ移すことで、室内に冷たく乾燥した空気を供給します。

キャリアは創業当初から、空調を「温度」「湿度」「清浄度」「気流分布」という4つの不可欠な要素を一体として制御するものと定義してきました。

現在のCarrierは、空調が快適性に加え、建物の健康性、利用者の安全性、そして生産性の向上にも重要な役割を果たし得ると考えています。

空調はどのくらいの期間で一般的に普及しましたか?

1953年は住宅用空調の普及における転換点といえる年でした。ルームエアコンの販売台数は1948年の74,000台から1953年には100万台以上へと急増し、販売店は在庫切れとなり約10万人の購入希望者を断らざるを得ませんでした。これは、コンセントに差し込むだけで使える簡便で信頼性の高い製品が登場し、家電として販売されるようになったことが背景にあります。Fortune誌は1953年、「窓から突き出たルームエアコンは、テレビアンテナ同様にありふれた社会的シンボルになりつつある」と書いています。

Carrierの当時のCEOクラウド・ワンプラーは、都市内のオフィスビルの20%が空調を備えると、残りも競争上導入を迫られると考えました。ニューヨークとフィラデルフィアでは1953年にこの水準に達し、ワンプラーは「明日には従業員が空調のないオフィスを受け入れなくなる。流れは不可避だ」と述べています。

また、全米住宅建設業者協会の1953年調査では、有力255社の40%が、15,000ドル未満の空調付き住宅を販売する計画を立てていました。

市場の変化に対応してCarrierは3部門に分割され、産業用、住宅用、そして食品冷凍庫や製氷機などの関連製品をそれぞれ担当しました。

17年後の1970年、ニューヨーク・タイムズ紙は米国国勢調査を「エアコン・センサス」と呼び、「空調は空気だけでなく人の移動にも影響を与え、温暖地域では自動車やテレビ同様に一般的になった。その普及が、フロリダや南テキサス、南カリフォルニアのような亜熱帯地域で通年生活する人々の増加を説明する」と報じています。

最初のエアコンの価格はどのくらいでしたか?

初期の空調設備すべての価格が分かっているわけではありませんが、いくつかの事例は確認されています。例えば1907年にニューヨーク州ウェイランドのヒューゲット絹織会社の織布工場向けに設計されたCarrierシステムは、3,100ドル(現在価値で約9万ドル)で納入されました。

1938年のFortune誌は、空調が設備投資型産業と消費者向け産業に分かれたと指摘しています。建物全体を冷却する「セントラル方式」では、大規模工場や店舗で100万ドル以上、小規模住宅で1,500ドル程度(現在価値で約2万9千ドル)という例がありました。

一方、消費者向けには、一室用の独立型装置が登場しました。大型のキッチンキャビネットや書類キャビネット、ラジオコンソールのような外観で、電源プラグと窓、水配管に接続するだけで使用でき、主に夏季の冷房に限定されるタイプです。こうした家電は1930年代には約400ドル(2021年換算で約7,700ドル)まで下がりましたが、それでも多くの中流家庭にはなお高価でした。

日本キヤリアの社名はなぜ「キヤリア(ヤが大きい)」という表示ですか? 空調を発明したWillis Carrierの人名表記はなぜ「キャリア(ャが小さい)」のでしょうか?

日本キヤリア株式会社の社名については、1929年にCarrier社が初の海外拠点として日本を選んだことにルーツが遡ります。翌1930年、当社の前身のひとつである東洋キヤリア工業株式会社が設立されましたが、この社名は登記当時の仮名遣いを反映していました。日本での100年近い歴史を誇りに、社名の「キヤリア」という表記を当社では現在も大切にしています。

なお、人名については、現在の仮名遣いに準ずる表記である「キャリア」を用いることで社内的に統一しています。